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池田勇太「ものすごくカッコよさを感じてゴルフの世界に飛び込んだ」ジャンボさんとの日々を追悼

ツアー通算21勝の池田勇太は、「(石川)遼や私がジャンボさんの凄さを目の当たりにできた最後の世代ではないか」と、思っている。




池田が6歳でゴルフを始めた1990年代は、ジャンボさんがちょうど40歳なかばにさしかかったころ。
94年から5年連続の賞金王に就くなど、第二期全盛期と呼んでもいい時期だった。

「我が家はまず祖父が大ファンで、プロゴルファーといえばジャンボさん。テレビをつければ常に優勝されているイメージ。子どもながらに強烈でした」。

池田も、ジャンボさんのウェアや髪型を真似するなど心酔した。
「その姿にものすごくカッコよさを感じて、ゴルフの世界に飛び込みました」。

憧れの人との同組が実現したのは、千葉学芸高校3年時。2003年「ブリヂストンオープン」の最終日に見た光景は、今も忘れはしない。
「まさかの夢の瞬間に、緊張もさることながら、詰めかけたお客さんの多さに度肝を抜きました」。

会場の袖ケ浦カンツリー倶楽部(千葉県)は2番ホールで橋を渡るが「あまりにお客さんが多すぎて詰まってしまい、大渋滞していた」。
プロへの憧憬をますます強めるきっかけとなった強烈な記憶だ。

2007年にプロ転向し、翌年の「日本プロ」で初優勝を飾った際など、節目には必ず出向いて報告と挨拶を欠かさないなど、崇敬してきた。

ジャンボさんとの最後の同組ラウンドとなったのは、2013年の「ダンロップフェニックス」。ジャンボさんが、40回目の大会連続出場を達成した年で、トム・ワトソン氏との予選ラウンドに、「なぜだか私がご一緒させていただけることになり…。幸せでした」。


偉大な2人に同行させていただきました


池田が賞金王に輝いた2016年には、翌年に開いた祝賀会で、ジャンボさんがサプライズで登壇。
いつもの“ジャンボさん節”でゲストを笑わせながら「1回では認めない。2度、3度で本物」との祝辞と激励を、池田は号泣しながら聞いた。

    ジャンボさんがガン宣告を受けた昨年末には池田も近しい人から症状の報告は受けていたが、ジャンボさんの口から決して語られることはなく、そのまま“面会謝絶”での闘病生活に入られていた。

    だから昨年、喜寿の誕生日に自宅に伺ったのが、池田にとっては最後の対面となった。

    当時は、池田も顎偏位症(がくへんいしょう)の治療に苦しんでいた時期。
    「私の症状を親身になって聞いてくださり、とにかくまずは治すことが一番、と。治ればまた変わるから、と温かく励ましてくださった」。
    対話の中で、前年の池田の賞金シード落ちにはいっさい触れなかった、というジャンボさん。
    会えばいつもゴルフ愛と、他者への思いやりに満ち溢れていた。

    「来年1月24日のお誕生日にまたお会いできると信じて楽しみにしていた」という池田。
    「私事ながら、今年は3年ぶりにシード復活し、(12月)22日には40歳となり、ここからリスタート、と誓った翌日の訃報に力が抜けてしまいました」と、悼む。

    「もう1回復活をお見せしたい、と思っていたのに。もっともっと生きて欲しかった。あまりに早く旅立ってしまいましたが、これからもずっと、私たちを見守っていてくださると、私は信じています」と、尽きせぬ哀しみを噛み締めた。

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