尾崎将司さんが死去した。78歳だった。
約1年前に、S状結腸がんが見つかり、闘病していた。本人の強い意志で入院はせず、23日の午後3時21分、ご家族に見守られながら、千葉市内のご自宅で息を引き取られたという。
長男の智春さんから公表されたのが24日の朝。
中嶋常幸はなくなる前日に、容態の急変を聞いて駆け付けたそうだが、智春さんから「おやじはいま頑張っています」といわれて「ありがとう、と伝えて」。思いを託した翌日の悲報に涙を流した。
だれもが動揺し、突然の決別を悼み、在りし日に思いを馳せた1日となった。

50歳を超えても頑としてシニアツアーには出場せず、レギュラーひと筋。腰痛や神経痛に苦しみながらも、若手にまじって奮闘した。
最後の試合となったのは72歳の2019年、11月の「ダンロップフェニックス」。初日に10番のインコースから出て後半アウトの3番ホールで無念の棄権をした。
思うがままにならない心技体を嘆いて「何とも言えない不甲斐なさ」と、吐露した。
その日も、多くのギャラリーがついたが、「歩いてくれた人に入場料をお返ししたい」と、冗談ともしれない口調で苦渋の思いを語っていた。
96年の同大会では、前人未到の3連覇を達成。プロ通算100勝に到達した(最終通算113勝)。74年から、46年連続出場を果たした思い出の庭が結果、最後の舞台となった。

エースでセンバツ高校野球を制したあと、プロ野球選手として一度はデビューしながら、1970年にプロゴルフに転身した。
181センチの身体で誰よりも遠くに飛ばして観衆を魅了。すぐについたあだ名が「ジャンボ」。当時、アメリカからやってきた航空機ジャンボジェットになぞらえての命名が、人気に拍車をかけた。
2年目の71年には一気に5勝。以後、圧倒的強さを不動のものに。
賞金ランキング制度がスタートした73年の初代賞金王を皮切りに、最多の通算12回。生涯獲得賞金でも1位。
ツアー勝利も最多の通算94勝。
重ね続けた偉業の中でも特筆されるのは、40代以降にうち63勝を達成していること。
特に、80年代前半のスランプを乗り越えてからこそジャンボさんは強かった。
41歳の88年に、3週連続優勝を含む年間6勝で、11年ぶりに王座を奪還すると、そこから3年続けて1位を譲らず、51歳の98年には今度、5年連続の賞金王に。
2002年の「全日空オープン(ANAオープン)」で樹立した55歳の年長記録はいまだ破られていない。

年齢か、年齢より少ないスコアで回るエージシュートは、66歳の13年「つるやオープン(初日62)」と、70歳の17年「HONMA TOURWORLD CUP(2日目70)」とで2度達成。
いまも、史上唯一人の記録として刻まれ続ける。

記録にも、記憶にも残る唯一無二のプロゴルフ人は、プロ野球の長嶋茂雄氏をこよなく愛したが、敬愛した“ミスター”も今年6月にこの世を去った。
2008年の長嶋茂雄 INVITATIONAL セガサミーカップにて
選手会長の谷原秀人は、「そのことも、ジャンボさんには相当のショックだったと思います」と思いやり「まさか、同じ年にジャンボさんまで失ってしまうとは」と、絶句していた。「ジャンボさんほど繊細で、シャイで、優しくて、面倒見のよい人はいません」と、回想した。
数々の名勝負を作った3強「AON」の一翼を担った中嶋も、ジャンボさんには、特にスランプ時にスタートのギリギリまでスイング指導をしてもらうことが、たびたびあったと明かした。
晩年は、特に若い力の発掘にも力を注いで、次々とスター選手が誕生。その遺志は、それぞれの胸に刻まれている。
ジャンボさんを慕う人々からの追悼の声は、1日経った今もやまない。
葬儀は、近親者の方々のみで執り行われるが、後日、お別れの会が開かれる予定だ。
改めまして、生前の偉大な功績の数々に、最大限の敬意を表するとともに、背中で魅せ続けてくださった55年のプロゴルフ人生に、心からの感謝と哀悼の意を捧げます。合掌
2019年日本ゴルフツアー選手権 森ビルカップ Shishido Hills