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僕らのツアー選手権 / 藤本佳則の選手権

JGTO主催の「日本ゴルフツアー選手権 Citibank Cup Shishido Hills」は、選手や関係者が話題にする際には、短く「ツアー選手権」や「選手権」と呼ぶ。
その年、ツアーで活躍する最強選手を決める。5年シードの日本タイトルに、最年少のチャンピオンが誕生したのが、2012年の13回大会だ。

難条件を制して、若手の台頭をアピールしたのが当時22歳の藤本佳則だった。

東北福祉大のころから活躍した注目株はその年、満を持してプロデビュー。
出場5試合目の初優勝は、99年のJGTO発足後としては、当時の最速タイ記録でもあった。

それでも藤本は、「なかなか勝てなかった」と、言った。
その3試合前に「とおとうみ浜松オープン」で、首位を走りながら最終ホールで破れた悔しい経験もあったが、それ以前も「アマ時代から、ビッグタイトルが獲れない。万年2位でした」。

悔しさをため込んだままプロになった藤本には、遅すぎた初Vと話した。
学生時代から、ある意味プロよりプロらしいアマチュアと、周囲は見ていた。
物おじせず、我が道をゆくタイプと多くが認識していただけに、大勢の先輩プロや、恩人らに祝福されて、号泣した時にはみなが驚いた。
真っ赤に泣き腫らした目を、左の袖でゴシゴシとこすりながら「やっとみなさんに恩返しが出来たと思ったら、さすがにウルっと来ましたね」と、照れた。

4つ上の大学先輩、池田勇太との死闘も制した。
まだ学生だった頃、藤本がツアーに出るたび「うちの後輩をよろしくお願いします」と、他の先輩プロに頭を下げて回ってくれたのが池田だった。
「おかげでプロになっても、みなさん優しくして下さった。勇太さんは、本当に凄い先輩やと思います」。
敬服する恩人にも、好ゲームで応じられたことも嬉しかったと言った。

5年シードと共に、勝者に贈られるWGC「ブリヂストン招待」の出場権利のプレゼンターとして、会場を訪れていた青木功が「君の名前は忘れない」と、言った。
涙の初Vは、世界のアオキも認めたみごとな勝ちっぷりで、トッププレーヤーの仲間入り。
最年少NO.1にとっての「ツアー選手権」とは?

僕の人生を変えた試合」。
若い力が新たな歴史をこじ開けた瞬間だった。

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