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東建ホームメイトカップ 2005

高山忠洋「いつか“超一流”と呼ばれたいけれど」

プレーオフ3ホール目。7番アイアンで打った残り158ヤードの第2打が、ピン手前3メートルについたとき、高山からガッツポーズが飛び出した。

前の2ホール目もパーで分けたあと、それまで、グリーン右サイドだったピン位置が、真ん中奥に切り替えられた。
その直後のことだった。

大会前週、高山は、火曜日と金曜日にもここ東建多度カントリークラブ・名古屋に来て、キャディの東勝年さんと、入念なコースチェックを行っていた。
特にプレーオフホールの18番グリーンは、1年前から愛用している水平機を使って綿密に傾斜を調べあげておいたホールだった。
「そのとき、一番バーディを取るチャンスがあるのが、今回のピン位置だったんです」。

プレッシャーのある大事な場面で、思いどおりのポイントにショットが打てた喜び。
スライスラインのバーディパットがポトリ、とカップに落ちた瞬間、今度は両腕を、何度も天に突き上げていた。
「下調べをしていたのが、まさかあそこで役に立つとは。最後は、思わず何度もガッツポーズしちゃいました」。

プレーオフは、はじめての経験だった。
川原希と通算8アンダーで並んで迎えた1ホール目はさすがに力が入っていたのか。
ティショットを大きく左に曲げた。
前に木、左手にテレビ塔、グリーン右サイドには池。八方ふさがりの状況で高山は、わずか2メートル四方の隙間をついて、みごとグリーンに乗せてパーで切り抜けた。
「このショットで吹っ切れた」。
21ホールの長丁場に終止符を打って、念願の初優勝を手繰り寄せた。

最後のバーディパットを決めた瞬間、「これまでのモヤモヤが吹っ切れた」という。
本格的にプロを目指してわずか4年目の99年のファイナルQT。当時、大会最年少の21歳で、翌年のツアー出場権を獲得した。
2年後の2002年には、初シード入り。
順風満帆にも思えるが、しかし、初優勝のチャンスはなかなか生かすことができなかった。

2003年には練習熱心がたたって、左手首をひどく痛めた。
いつも明るい高山が「このときばかりは、かなりナーバスになっていた」と、キャディの東さんは振り返る。

手首に負担のかからないスイングに改造するなど試練を乗り越え、ようやくつかんだ初タイトル。
「・・・小久保さんのいうように、いつか超一流の選手になりたい。でもそれは、上を目指してやっていくうちに、まわりが評価してくれること。いつかそう言われるようにこれからも、とにかく1打1打がんばっていく」。

この2005年開幕戦で、プロ7年目の高山がようやくスタートラインに立った。

写真中=タッグを組んで3年になるキャディの東勝年さんは、所属コースの法仙坊ゴルフ倶楽部でかつて高山と、一緒にプロを目指していた4つ上の先輩。
プロを諦め、地元・石川県で大工をしていた東さんが高山からキャディに誘われたのは、2003年のアイフルカップだった。
「あのとき、1回だけのつもりだったんですけどね。いつのまにか3年がたって、こうして優勝に立ち会うことができて僕も嬉しいです」(東さん)。
  • 優勝の瞬間は嬉しさのあまり、キャディの東さんに体当たり抱きつき、男同士の熱い抱擁!
  • 両親はじめ、恩人たちの手で宙を舞った

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