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中日クラウンズ 2003

『このまま病気になるんじゃないか、と思ったことも・・・』結果の出ない日々に星野英正は、両親に泣きついたこともあった

星野のデビュー戦は、2000年4月のキリンオープンだった。大会前日の水曜日。アマタイトル52冠、日本アマ3勝と、これ以上もないくらいの実績をひっさげて、記者会見上にあらわれた星野はキラキラと目を輝かせながらこう言い切った。 「優勝を、狙っていきますよ」。
当時を振り返って星野は言う。「もちろん、勝つとまではいかないまでも、はじめは、そこそこやれるって自分でも思ってたんですが・・・」 しかしツアーの世界はそれほど、甘くはなかった。通算10オーバーで3打足りずに予選墜ち。

それをかわきりに、8月のサンクロレラクラシックまで、5試合連続の予選落ちをし、推薦出場で出られた8試合のうち残り3試合も、4日間プレーするだけで精一杯に終わった。
周囲の期待が大きかっただけに星野には、「早く結果を残したい」という気持ちが強かった。出る試合、すべて勝てる気がしたアマ時代。それなのに、どうしてツアーでは、思うようにプレーができないのか。はがゆさと焦りが、星野の心をむしばんでいく。
ファイナルQTの資格で出場権を手に入れた2001年も苦戦が続いた。何試合か連続で予選落ちした試合の帰り道、応援にきてくれた両親を前に、「これから、俺、どうしたらいい?」と言って泣いたこともあった。「このまま俺、いったいどうなっちゃうんだろう・・・」
親の前で泣いたのは、記憶もないくらい幼いころにイタズラをして叱られたとき以来だった。
父親が、コンペの賞品で持ち帰るトロフィー欲しさにクラブを握った小学生時代から、はじめて味わった挫折。
同時に、周囲からは結果が出せない星野に対する、非難や中傷の声が風の便りに聞こえてきた。「それこそ息抜きもせずに、こんなにもゴルフに打ち込んでいるのになぜ、という気持ちだった。
一時期は、人と会うのも嫌になり、練習以外はいっさい外に出ずうちにこもっていた時期もありました。このままでは、病気になるんじゃないか、とさえ思ったことも・・・」
そんな星野を最後まで見放さなかったのが、ほかでもない父母だった。泣きじゃくる星野に、両親は言ったのだ。「これから先まだまだ長い。私たちは焦っていないよ。だからおまえも焦らずに、いつか結果を残そうと思えばいいじゃないか」
「もう、ゴルフをやめてしまいたい」とまで思い詰めた星野を支えてくれた両親の愛。
初優勝の喜びと同時に、当時の思いが、怒涛のように溢れ出す。初めての優勝スピーチで、いちど瞳からこぼれ出てしまった涙はなかなか止まらない。
嗚咽で途切れがちになる声を、星野は懸命にしぼり出し、思いのたけを伝えようとした。「このまま一度も優勝することなくゴルフ界から消えていくのかな、とまで思った僕を、見守り続けてくれた両親には、ほんとうに、心から感謝したい気持ちです・・・」

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