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〜全英への道〜 ミズノオープン 2015

手嶋多一が29年ぶりのホストV、22年越しの恩返し

やっと恩人を喜ばせることが出来た。あまりにも待たせすぎて主催者は、もはや諦めていた。「毎年、うちでトーナメントをやらせていただいていますけど。毎年、またダメだったかあ、と。しゃーないなあ、と」。ざっくばらんに積年の思いを打ち明けたのは、大会主催ミズノの水野明人・代表取締役社長。

当時はミズノの所属プロとして活躍していた中嶋常幸が、ホストVで大会を沸かせたのも1986年と、すでにひと昔前の話。いっこうに、後が続かず裏切られ続けた期待。
「でも、こんなにドキドキして試合を見させてもらったのは、初めてでした」と、やっと社長もエビス顔。スタッフの皆さんの胴上げで、宙を舞った46歳のホストプロ。そのあと、なぜか水野社長も胴上げされて例年になく、会場はお祝いムード一杯のツアー通算8勝目は、「今までで、一番嬉しい」。誰より本人が感極まった。昨年は、日本プロでシニア入りまで安泰な5年シードも、「こんなに嬉しいことはなかった」と、恩人に捧げるVは、ほかのどれより格別だった。

22年のプロゴルフ人生は、まさにミズノとともにある。いやむしろ、生まれて46年の人生そのもの。物心ついたころから同社のクラブを遊び道具に、父親の啓さんが経営する練習場にあったのも、同社のショップ。「初めてゴルフを始めたときから僕は、ずっとミズノのクラブで育った」。
一時期まで、男子ツアーの最年少予選通過記録は手嶋が持つ15歳と11ヶ月(1984年日本オープン)。地元九州で神童と呼ばれた天才少年は、まさにミズノの申し子だった。

「どれよりも勝ちたいのがこの試合。恩返しがしたい」。強い思いはこの日もさっそくプレッシャーとなった。首位タイで出た1番では、いきなりティショットを右へ。
「いや、(水野)社長がじーっと見ているから。緊張した」と、背後で見つめる恩人の視線が重圧に。「でも曲げすぎて。かえって良いところから打てた」と、苦笑いでパーを拾った。「君はいっつも最初に曲げるなあ・・・」と、ついボヤいた水野社長もさっそく安心させた。

序盤は、ストレンジとの拮抗した戦いも、6番の連続バーディで一歩リード。8番ではボールが沈んだ左足下がりの難しいライからチップイン。ジワジワと差をつけた。2打差で折り返すと10番で8メートル。11番ではピンそばの連続バーディで、逃げ切り体勢を作った。13番、16番で3パットのボギーに、これまた主催者をヒヤリとさせたが、いよいよ3打差で迎えた18番のパー5は「絶対に刻んで3打目勝負」。
揺らがぬゲームプランでしっかり締めた。大歓声に答えて、投げ込んだウィニングボールはミズノのMPX。「ミズノのボールで勝った。男子プロ第1号が僕」と、ホストプロにはそれも誇りだ。

大会は29年ぶりのホストVも実現させた。支えてくれたベテランのハウスキャディも驚いた。その道25年の三島千春さん。グリーン上で、まったく逆のラインを言われて初年度こそ「本当か」と半信半疑も、今や毎年、“ご指名”するのは手嶋のほう。この日も3番で3メートルのパーセーブも「キャディさんの的確なラインでした」と絶大な信頼感も、この大会で“コンビ”を組んで早4年目ともなれば、三島さんもざっくばらんに「手嶋プロはストレッチもしないで、朝いきなりボールを打つんです!!」。
専属のコーチも、トレーナーも、雇ったことがない。「終わったあとに、ほかの選手がよくする自転車をこいだり、有酸素運動もない」。
それより欠かさないのが、プレー後の昼寝。「夕食前に、3時間ほど休めば疲れが取れる」。翌日の英気を養う。ツアーでも有名な、練習しないプロの一人は一見、不名誉な称号も、プロ22年の経験と知恵である。

実は、きわめて繊細な性格は、それでも一時期、理論に走ったことがある。日が暮れるまで練習場に居座り「完璧主義者。神経質に考えて、考えても良くならずに、ますます悩む」。悪循環。当時の専属キャディに言われた。
「手嶋さんはコースで“ゲーム"をしていない」。
「確かに」。技術にこだわるあまりに、スコアメイクも二の次で、持ち味が死んでいた。「300ヤード飛ばしてスピンをかけて、というのは僕のゴルフではない。組み立てて、回して回して打っていく。シンプルにやろうと決めた」。技術にこだわるよりも、生来の感性を研ぎ澄ますことに心を注ぐことにした。「リズムやテンポ。あとルーティンとか。緊張したら、ティにボールも乗せられないほど手が震えるたちなので。そういうときはどう対処しよう、とか。イメージ作りが僕は好き」。ほかの選手が練習場で、懸命に球を打ったり、トレーニングで汗を流す間もあえて、ホテルの部屋に一人こもって鏡の前で、素振りをしながら静かにゲームプランにふけるようになった。

毎シーズンの開幕は、あえて準備不足の状態で、不安な思いのまま迎える。「準備して、ダメだったほうがショックだから」と、そこも非常に繊細な一面を伺わせつつ、実践の中、手探りで徐々にエンジンをかけていく。今年も、最初の3試合は「14本、同じように振れるセッティングを」と、ミズノが世界に誇る“クラフトマン(クラブ職人)”と、毎週のようにシャフトや、グリップを替えたり、幾度も調整を重ねてついに大願を成就した。

今年の全英オープンは、5年に一度のセントアンドリュースが舞台で、それを知った瞬間に、「今回だけは、絶対に行きたい」。次の5年後は53歳。「それはもう無理だから。今年が最後のチャンスになる」。この大会で日本予選が始まったのが、手嶋がプロ入りしたちょうど1993年。あれから早22年が経とうとしているのに、この予選会から権利を勝ち取ったミズノ勢が、2002年の鈴木亨を最後に途絶えたままであることが、手嶋にはずっと心苦しかった。
やっと少し、恩返しをさせてもらえた気分。
「手嶋選手のおかげでこの大会が、まさに全英への道に続いていることを、今年はまざまざと感じさせてもらった」と、水野社長。
「現地でも、しっかり応援させてもらいます」と7月16日の開幕を、社長も楽しみにしている。「行くからには上位で」。せっかくだから、聖地でこそ恩人をもっと、わくわくさせたい。
  • 46歳のホストプロの次に宙を舞ったのは・・・
  • ・・・しゃ、社長〜〜〜!!
  • ミズノMPXのウィニングボール!
  • 歓喜の水シャワー!

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