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つるやオープン 2000

「2000年/プレーヤーたちの挑戦 」芹澤信雄

 開幕戦の東建コーポレーションのプロアマ日、芹澤は2000年のツアーの目標を「賞金ランク30位内」と答えた。それは、ツアー通算4勝の経験があるベテランとしては、ずいぶん慎ましやかなものだった。

「いや…僕にはまさかもう、優勝なんて華やかなこと、望めるはずもない(笑)。それよりも毎年、地道にシードを取ること。これが実は、どれほど難しいことか、この 3年で本当に痛感したんです」。
口調は冗談めかしてはいたが、言葉には、芹澤の真摯な気持が溢れていた。

 96年の日本マッチプレーを制し、5年シードを手にした瞬間から、「僕の人生は変わってしまった」と芹澤は振りかえる。
さらなる飛躍を目指してスイング改造に手を染めたことから、芹澤の苦悩の日々ははじまった。

「どんどん道具が進化して、みんな飛距離が伸びて、その中で『こんなんじゃオレ、やってられないよ』って、他人の飛距離が羨ましくて仕方なくなったんです。
 以前はね、『オレの辞書には曲がるって言葉ないんだ』って胸はっていられた。ショットなんて、打てばひとまず真っ直ぐ飛ぶ。そこからアプローチで寄せて、きっちり入れる。オレはそういうステディなプレーヤーでいいんだって思ってたんです。
 でも、マッチプレーに勝ったら、『もっともっとレベルアップしなくちゃいけない、ゴルフはやっぱ飛距離だ!』とか思っちゃって。
スィング変えたら、確かに前より飛んだんです。でも、自分でも信じられないほど曲がり出して、もうそこからは泥沼です。はまっちゃった。自分でもわけがわからなくなって、元に戻そうって思ったときには、もうどうしようもなくなってた」

そして、それまで10年間も守りつづけてきた賞金ランクによるシード権を失った97 年、芹澤の身には不幸が押し寄せた。
 父・進氏のガン発覚、翌年の2年連続シード落ち、自身のギックリ腰―。特に、進氏の病気は身に堪えたという。

「医者にもうあんまり長くないって言われて、でも、こっちはシード落ちしちゃってて不甲斐ないし、なんとかオヤジ生きてるうちにいいとこ見せようって思うんだけど、スイングはめちゃめちゃだし、大事なときにギックリ腰なんかしちゃうし、予選落ちばっかりで、『もうオレも40歳だもん。もうダメかもな』なんて、弱気になっちゃって、引退も考えましたよ」。しかし、やはり父への強い愛情が、それを許さなかった。父のために芹澤は、懸命になってスイングの立てなおしに取り組み続けた。

 残念ながら進氏は、芹澤の復活を待たずに昨年10月に亡くなっている。
開幕戦の東建コーポレーションで、約1メートルのウィニングパットを沈めたとき、苦しかった3年と、亡き父のことが同時に頭をよぎったのだろう。力尽きたように思わずその場にガクリ、と座り込んだのも、堪えきれぬように優勝インタビューで男泣きしたのも、そのせいだ。

「苦しんだおかげで、手に入れたものがあります。それは、自分のゴルフを貫いていけば、今後10年はやっていける、という自信です。
僕は、飛距離とかそういう派手なものは持っていないけど、球を自在に操ったり、どこからでもアプローチでピンに寄せるとか、確実にパットを沈めるとかいった小技でパーを積み重ね、ボギーはなかなか打たないというステディさが僕の最大の持ち味でした。これからも、そういうゴルフの組み立て方をしていけば、優勝はありえないにしても、毎年シード入りできるようなプレーヤーとして、あと10年はやっていける、と思えたから。苦しんだことは無駄じゃなかった」

3年の間にゴルフの恐ろしさ、シード入りの難しさを知り尽くし、「今年は賞金ランク30位に入れればいい…」と、謙虚な気持ちで2000年を迎えた男が、今季“一番乗り”を遂げた。
「飛距離を求めて回り道をしたが、結局、元に戻ってきた」と優勝後、芹澤は言った。そして、「これからも地道なゴルフを続けていたら、また、今回みたいなチャンス(優勝)にも、めぐり合えるかもしれない」と笑った。その瞳は、新たな自信と希望とで燃えるようだった。

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