Tournament article

サン・クロレラ クラシック 2007

プロ13年目の菊池純がプレーオフ3ホールを制してツアー初優勝

わずか20センチのウィニングパットがボヤけて見えない。4日間降り続いた雨も、“75ホール目”を迎えたこのころにはすっかり止んでいたはずだった。「でも僕の目が、ドシャ降りだった」。泣くつもりなどなかった。プレーオフ3ホール目。
鈴木亨はティショットを左に曲げて、ボギーに終わっていた。
対してフェアウェーど真ん中から乗せた3メートルのバーディパットは余裕で決めて、かっこよくガッツポーズで歓声に応えるつもりだったのに。

「あらら、あいつ泣いてるよ・・・」とグリーンサイドで呆然とつぶやいたのは、応援に駆けつけた兄貴分の立山光広。
彼ばかりか、本人をよく知る者たちはみな少なからず驚いた。
どんなときも、めったに物怖じしない。
いつも飄々と明るく、前向きな性格は涙とは無縁に思われたからだ。

目立ちたがり屋で、ちょっぴりお調子者でもある。
理容店で、マスターに勧められるまま、遊び心で両のこめかみ辺りに入れたイナズマ型の剃りこみが物語る。
この日選んだウェアは、大好きなオレンジ色のポロシャツとサンバイザー。
腰の大きなバックルはまるで、チャンピオンベルトのようだ。

そんな選手がツアー初優勝の歓喜に震え、人目もはばからずに泣いていた。

中学まで野球少年。しかし「万年補欠はイヤ。ずば抜けていたい」と、地元・埼玉の武陽学園西武台高からゴルフに転向。
卒業して研修生になり、95年のプロテストで片山晋呉と並ぶ2位に入ってプロデビュー。
しかし「すぐにも活躍できるだろう」との本人の思惑は外れ、ようやく初シード入りを果たしたのは2002年だった。

昨年5月には、ぎっくり腰をやった。しばらくは立ち上がることもできず、ホテルの部屋でトイレに行くにも1時間半を要した。
結局その年は「3割4割程度のスイングしかできなかった」。
中でも一番つらかったのは、当時3歳の長女さくらちゃんと、1歳の次女・綾実(あやめ)ちゃんを抱っこしてあげられなかったこと。
妻・慶子さんに、重たいキャディバッグを運んでもらわなくてはならなかったことだった。

しかし故障のときも、練習とトレーニングは欠かさず、4年目のシード権を死守。
「とにかくゴルフが上手くなりたい」その一心で、毎日ボールと向き合った。
いつも陽気な笑顔の裏に、実は繊細な一面を隠し持ち、真面目で人一倍練習熱心であることも、彼と親しい人ならば誰もが知っている。

針、電気、整体、気功・・・。あらゆる治療を尽くし、どうにか本調子で迎えた今シーズン。
いよいよそんな苦労の数々が報われて、涙は後から後から溢れてきた。
家で待つ家族にも、これでようやく良い報告ができる。

この13年間というもの、夢にまで見たこのシーン。
「家族と歓喜の抱擁も良いし、仲間の手で池に落ちるのもいい」。
そんな想像はいつしか「妄想(笑)」へと変わり、感動の優勝スピーチまで練り上げていたほどだ。

しかし、いざその瞬間はすべてが吹っ飛んだ。
「頭が真っ白になってしまった」。
グリーンを下りた瞬間に、立山らから浴びせかけられたビールシャワー。
全身ずぶ濡れのままいざマイクの前に立つと、涙で声は裏返り、言いたいことの半分も言えなかった。

「だから、次は家族も見ている前でもっとかっこよく勝ちたい。表彰式で今度こそ、お世話になった人たちにもっと上手に感謝の気持ちを伝えたい」。
勝つまでは「まず1勝できれば本望だ」と思っていた。だが、いざ実現したら次の目標が自然と口をついて出た。
  • ウィニングパットを決める直前からずっと、涙が止まらない・・・
  • 声を震わせながら、最後まで声援を送ってくださったギャラリーにあいさつ「ありがとうございました!」

関連記事