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日本オープンゴルフ選手権競技 2005

藤田寛之「チャンスがあれば、かじりつきたい」

すぐに気持ちを切り替えた。最終18番。「この状況で、1アンダーで回れてる自分を思って、必死で気持ちを切り替えた」。
大雨の降りしきる中、4メートルのパーパットをねじこんで、通算1アンダーの3位タイに踏みとどまった。

悪夢は、231ヤードの17番パー3だった。
クリークか、スプーンかで迷ったティショット。
「スプーンで、思い切って(グリーン)奥もあり」。
そう決めて打ったはずだったのに、その瞬間「やはり、大きかったかも」との思いが頭をかすめた。
わずかに緩んだショットは、グリーン手前のベアグランドの中へ。

それは、小技に定評のある藤田が「どうしようもない、と思った、過去に経験がなかったアプローチ」。
2オンできず、3パットのトリプルボギーが悔やまれるが、この日、悲観すべきミスはその1ホールだけだったのだ。

70回大会の舞台、廣野ゴルフ倶楽部はスタートから、いきなり精神力を試される。
普段はパー5の1番パー4(477ヤード)を皮切りに、距離の長いミドルホールが続く。
その始めの4ホールで、「2アンダーで、クリアできたのは良かった」。

1番で13メートルのバーディパットをねじこんだ時は、そのホールで働くボランティアの人が「今日、ここで初めてバーディを見た」と言ってくれたものだ。
それは、この難コースで前向きになれる大きな材料でもある。

廣野ゴルフ倶楽部で行われるこの70回大会には、特に思い入れが強い。
1966年大会のローアマ連覇、日本アマ6勝。数々の功績を持ちながら、生涯アマチュアを貫いた中部銀次郎氏。
そのご子息の隆さんとは同級生で、学生時代から交流があった。

ここ廣野ゴルフ倶楽部のメンバーで、2002年のクラブチャンピオンに輝いた隆さんは、この70回記念大会の出場を目指して予選会から挑んだが、夢はかなわなかった。
その“残念会”を先週、都内で開いたばかりだった。

「彼の分まで頑張りたい」その思いを強くして、会場入りした。

今年5月に、ツアー通算5勝目をあげた。
「そろそろ、僕も日本一のタイトルをとってもいいころ」そう思えるほどの自信もついた。
「次のステップに上がろうとするときに、そこにあるのがメジャー戦。チャンスがあれば、かじりつきたい」。
2打差の3位に、闘志は萎えていない。



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