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関西オープンゴルフ選手権競技 2010

野中茂、家族に支えられた19年間のプロ人生

男の涙はサンバイザーでとっさに隠したが、汗に混じってとめどなく流れ出てしまったものは、もう止まらない・・・・・・
本人は、「自分は一生勝てない選手だと思っていた」と控えめだが、実は“遅咲きの天才”だ。本格的にクラブを握ったのは、母・トキ子さんについて、ゴルフ場でアルバイトを始めた17歳のとき。

その様子が、レッスンをしていた山本信弘プロの目に止まった。
「ゴルフを始めたばかりにしては、球さばきが異常に上手い」。
絶対にモノになる、とふんだ山本プロに言われるまま、高校卒業と同時に、地元の横浜カントリークラブの研修生となり、プロを目指したが本人は「本当の厳しさも知らず、ほとんど遊び感覚だった」という。

もしプロになれなくても、左官業を営んでいた父・龍三さんの「跡を継げばいいや」くらいに思っていた。
それからわずか3年あまり、92年は22歳でプロテストに合格したあたりが当時、山本プロが、野仲をして「天才」と称したゆえんだろう。

だが、そのあと98年までは、鳴かず飛ばずだった。
「プロになったら“出ます”といえば、すぐにでもツアーに出られると思っていた。甘かった」と笑う。

キャディをしながら支えてくれた陽子さんが、遠征費や生活費として貯金を切り崩してくれたのもこの頃。しかし、いよいよそれも底をついたころに、転機はやってきた。

あれは、2001年11月の三井住友VISA太平洋マスターズだ。
その年、ファイナルQTランクの資格しか持たなかった野仲は、秋のビッグイベントは、はなから出場を諦めて、同週の火曜日はチャレンジトーナメントの会場で、今からまさに練習ラウンドに出ようとしていた。

そのとき、同大会に出られるとの連絡が入った。アメリカで発生した同時多発テロの影響で、海外からの招待選手の来日が間に合わなかったために、繰り上げ出場が決まったという。
すぐに車を飛ばして会場の静岡は御殿場入り。ちょうどゴルフが絶好調だったこともあり、「最終日までイケイケ」で2位タイにつけ、初シードを手に入れたのだった。

そして翌年、家計に余裕が出来たのを機に陽子さんと結婚。
だが、賞金ランキングは年々下降の一途をたどり、2007年にはいよいよシード落ちを喫した。
「来るべきときが来た。一度、外に出てもう一度やり直そう」と、覚悟を決めて戦ったチャレンジトーナメントは、確かに本人には良い薬になったかもしれないが、奥さんの不安や苦労は、想像に難くない。

「それでも何にも言わず、支えてくれたから」。
表彰式でも、涙が止まらなかった。
シード復帰元年の今年、40歳を目前にして、ようやく才能を花開かせた“遅咲きの天才”は、最高の形で妻の献身に報いた。

  • 猛暑の中、駆け付けてくださったギャラリーや、ボランティアのみなさんに支えられた4日間。「暑い中、本当にご苦労だったと思います。ありがとうございました!」(野仲)