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藤田の最大のモテ期は小学生!?

午後からはテーマ「夢を持とう」の講演だ。藤田の頭を一番悩ませたのは、いかに子供たちに分かりやすく話すかということ。

藤田は、ツアーの中でも、テレビや雑誌からのオファーが多い選手の一人でもある。優勝争いに幾度と絡む事もあって、ホールアウト後のインタビューを始め、雑誌や書籍のインタビューも多数掲載されており、CS放送では定期的に番組に出演している。

また、スポンサー契約を結んでいるヤマハから依頼を受けて、新入社員の社員教育の一環で教壇に立つ事もある。「少しずつでもそういう場所や機会に慣れれば」と決心し引き受けた。大学生や新社会人となれば、自分の話も理解してもらえるし、夢について話しても自分達の人生と重ねて貰いやすい。
しかし、今日話す相手は小学3年生から6年生の子供たち。

自分の人生を年表形式で振り返り、“夢を持つ事の大切さ”を話す為に、用意してきたメモ書きに朝から何度も目を配った。答えは分からないものの、藤田が一生懸命に話す姿勢から感じ取れるのは、子供目線で話す事。それはこんな所に表れていた。

例えば、午前中のスナッグゴルフ実技講習の前に行われた寄贈式で、“ゴルフ界ではそこそこ有名な藤田です”と自己紹介をした。笑いも誘いつつ、子供たちにとっても有名な選手の話の方が、ずっと聞きやすいのを知っているからだ。

例えば、「分からない事があれば、話の途中でも聞いてください。分かりづらい部分があってもご了承・・・、許して下さい。」とすぐに言い換えた。黒板を使わずに、3年生の子供たちでも分かる言葉をチョイスして説明する事を心がけた。

極めつけは、自分がどんな小学生だったかをどの部分よりも長く話したこと。

4年生から始めたソフトボールでは、キャプテン・ショート・打順4番のエースだった。
6年生の時にはリトルリーグに所属し本格的に野球を始めた時期でもあったが、偶然にもキャッチボールをしようと校庭に出たら、友達がゴルフをやっていた事に影響され、初めてゴルフクラブを握った。
これが藤田寛之のゴルフを始めた最初の切っ掛けだ。「この友達があの時にゴルフをしていなければ、今の自分はないし、ツアーで優勝する事はなかった。」と振り返る。

また、“すぐに犬を拾ってくる小学生”だったそうだ。かわいい子犬を見つけては拾って帰って来て、親に内緒で飼ったりもした。

小学校5〜6年には人生最大のモテ期が到来したという。
バレンタインデーには20個近いチョコレートを集めた。
誕生日の時には、「約30年前はちょうど給食でお米が出てき始めた頃で、5人ぐらいからお箸のプレゼントがあり、結果的にどのお箸も使えなくて困った」と笑う。

ここまで話せば、子供たちも藤田の話に夢中になり、耳を傾ける。
この後は、“夢を持とう”の本題に入っていく。

中学時代も軟式野球で、ピッチャー・背番号1番・打順3番のエースだった。

しかし、受験して入った高校は野球部が弱かった為に入らず、ゴルフ場でアルバイトを始めた。
春と夏に開催されるジュニアの大会に出場する事を目標に、始発のバスで1時間かけてゴルフ場に行き、最終便で帰る。夏休みも同じように朝から晩までゴルフ一色になり、1か月でスコアを10打縮めた。

結果、優勝は惜しくも同級生の丸山茂樹に譲るものの、4位に入る好成績を挙げた。
研修生時代もプロを目指す為に、半年間の間は朝5時から夜8時まで練習に明け暮れた。

このエピソードからも分かる通り、藤田が伝えたいことは、「夢を達成する為にずっと頑張れる人はいない。自分自身だってそう。ただ、自分の好きな事に関しては、“ある一定期間は脇目も振らずに集中すること”が大切」。

子供たちが発表する夢は十人十色。「プロ野球選手」「保育士」「気象予報士」「美容師」など。藤田も子供の頃は、「プロ野球選手」「船長」「パイロット」の夢を持っていた。

ただ、夢は何だって良い。
生活する上で、色々と夢は変わってくる。それが当然。「好きな事ができた時は一生懸命頑張る。そうすれば、自分が思った事は達成されるから」。

藤田の次なる夢は、「自分のプレーを見て、泣いたり、笑ったり、悔しがったり、悲しんだりしてくれるゴルファーになりたい。そして、自分をサポートしてくれる人に恩返しすること」。

40歳になった今も夢に向かって走り続けている。
  • 子供たちから校歌のプレゼント。指揮もピアノ演奏も全て子供たちが担当。
  • 最後に集合写真
  • 一人ひとりのフルネームを書いてサインを渡す

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