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新・選手会長が初仕事

今年最初に、スポンサーが一堂に介したこの場所に、馳せ参じたのは史上最年少の選手会長。みなさんの前で、ひとことご挨拶がしたいと自ら申し出たのはいいのだが、池田勇太はつい前日までハワイにいたのだ。
合宿先から駆けつけた。前日31日の夜9時に成田空港に降り立ったと思ったら、すぐ翌日はこの日の夜中の便で、またハワイにとんぼ返りをする。
壇上でマイクを握ったのは、わずかに10分ほど。たったそれだけの時間のために、自らに強行軍を課したばかりか「このような晴れ舞台でご挨拶させていただく機会を作って下さった主催者のみなさんに、心から感謝申し上げます」と、深々と頭を下げる姿こそ、会長職にかける決意の現れだ。
選手会長は通例、選手同士の互選で選出される。ところが今年、本人の立候補で決まったのは史上初。自ら名乗りを上げた池田には、切実な思いがあった。
昨今の経済事情もあって、「俺たちが戦う場所が、減ってしまった。これから俺たちどうなっちゃうんだろうと、そういう不安と危機感があった」と、池田は言う。
このままジャパンゴルフツアーの試合数が減っていくのを、指をくわえてみているわけにはいかなかった。
「一人の選手として何かできることはないだろうか」。手を挙げずにはいられなかった。
「これ以上、試合が減るのを食い止めなきゃいけない。食い止めて、元に戻して、増加傾向に持って行かなきゃいけない」。
そのためにやらなければならない課題は山とある。
「一杯ありすぎて、いまこれと、ひとつには絞れない」。その策は後から後から沸いてきて、いまここで、一言では語りきれない。
もっとも、ひとくちに試合数を増やすといっても、簡単なことではない。しかも選手と会長職。これまでも、その両立に苦しんできた歴代の選手会長を、池田も知っている。
それでも大役を背負うと決めたのは、「ひとことで言うと、俺の性に合っているから」。海外遠征でもまるでツアーコンダクターのように、スタッフの宿の手配からなにから全部、自分がやらなければ気が済まないほどの世話好きも昨年、一昨年は不本意な成績に終わって、返上を誓う今季はなおさらイバラの道も覚悟の上で、「二足のわらじを履くからといって、どちらかをおろそかにするつもりも一切ございません」と、きっぱりと言った。
この日も壇上で挨拶を終えるなり、スポンサーがひしめく宴会場に飛び込んで、さっそく“営業”を開始した。
「今までにないトーナメントを一緒に作って行こう。そう言って下さる方もおられてありがたかった」と、これが会長就任後の“初仕事”にも、さっそく好感触をつかんだ。
そして本業でも全力投球を誓った。「今年も年間2勝と賞金王。これまでの目標も、一切変えるつもりはございません」と、池田は言った。
「両立できてこそ、一人前の選手会長でありプロゴルファーであると思いますので」。
若き新・選手会長が、はじめの一歩を力強く踏み出した。














