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池田勇太が子供達に伝えたかったこと・・・①

給食の後に600枚近くのサインを終えた池田は、休む間もなく体育館に足早に移動した。

5限目にあたるこの時間は、“夢を持とう”を主題とした池田の講演会だ。
体育館に集まった高学年の子供達は約300名。そこに父兄の方々、関係者等々が加わり、大講演会となった。

池田はまず自分の生い立ちを話始めた。

5歳〜6歳のころ、祖父の影響を受けてゴルフを始めた。
池田の祖父は当時、地元では名の知れたアマチュアゴルファーだった。そんな祖父の練習について行くうちに、“自分でもゴルフをやってみたい”と思ったのがきっかけだ。小学校から家に帰ると、すぐに自転車に乗り近所の練習場に向かうのが日課となった。夕方になるとそこに祖父がやって来てゴルフの指導をしてくれるのだが、この指導が、本人曰く「巨人の星そのまま」だそうで、相当なスパルタ教育だった。
言われたことが出来なくて怒られてばかりだったが、それでもゴルフを辞めたいと思ったことは1度もなかった。ゴルフが本当に好きで楽しかったという。

小学2年生のある日、学校の校門近くを朝早くから掃除をする先生方を見て、“大変そうだなぁ”と思い、自分でも手伝い始めた。
この池田の行動が次第に仲間を増やし、クラスの中でもリーダー的存在となり、学級委員長を何度も経験した。
この時期に“仲間と楽しむこと”を覚えたそうだ。

中学生になり、全国各地で開催されるジュニアの大会に出場し始めた池田は、ある日、学校の先生に、「子供のくせにゴルフなんかやっていて生意気。」というようなことを言われてしまう。この日を境に、池田は学校に行くことが嫌になり始め、“お腹が痛い”、“頭が痛い“と言っては学校を休む日が続いた。
そんな日が続く池田に、母親の雷が落ちる。
「そんな小さなことでくよくよしているのであれば、ゴルフなんて辞めてしまいなさい!」
そう言われた池田は、“絶対に先生を見返してやる。ゴルフで成績を出してギャフンと言わせる。”と心に誓い、黙々と球を打つ日々を送った。
中学2年の時に千葉県大会に優勝、中学3年生の8月に全国大会に優勝した池田に、心ない言葉を浴びせた先生は、「これからもがんばれ。」と一言だけ言ったそうだ。池田は自分を認めてもらえたことがとても嬉しく、誇らしく思えたと同時に、“もっともっと頑張ろう”を思ったという。
その頑張りもあり、同じ年の10月には中学生から大人まで出場していた日刊アマで見事優勝。大人を負かしてみせた。この時に一番喜んでくれたのは、言うまでもなく祖父、祖母、母親だった。

高校に進学すると、当然のようにゴルフ部に入部。中学生までは、個人としてゴルフ活動をしていただけに、“ゴルフ部”という団体行動に違和感を感じた時期もあったという。
2年生で日本ジュニア優勝、その後も順調にタイトルを重ねた。
3年生になった池田は、ある日、学校の校長先生に呼ばれる。
「ゴルフ部でのリーダーシップ振りを、学校という枠に広げてやってくれないか。生徒会長になってくれ。」
池田は、「この時、ゴルフから離れた別のことに挑戦することで、人間的に大きく成長することができたのではないかと思う。」
高校を卒業する時、池田にはプロに進む道と大学に進学する2つの道があったが、結果的に大学に進学することになる。

大学に入ってすぐ、池田は大スランプに陥る。
中学1年生から常に毎年優勝を重ねてきたが、大学1年の時は1つも優勝することが出来なかった。スランプのトンネルから抜け出せないまま冬を迎えたのだが、池田が通っていた大学は宮城県。ゴルフ場は雪で覆われ、ラウンドをすることがまったくできなくなった。池田は先輩に、「ラウンドできなくてどうするんですか。」と問いかけると、思いがけない答えが返ってきた。「やらなくていいんだよ。」
雪でコースが覆われている3〜4カ月程度は体を鍛えることだけに没頭し、雪掻きをし、その雪掻きした道を黙々と走った。ゴルフからこれだけ長い期間離れたことがなかった池田にとっては、とても勇気のいることだったという。
年が明け、3月ころになりコースに出た池田だが、当然のごとくゴルフが上手くいかなかったが、時が経つにつれて状況は良くなっていった。
2年生の8月に日本学生で優勝、その後世界学生、アジア学生等々、数えきれないほどのタイトルを積み重ねていった。

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